2011年10月10日月曜日

方耳聞こえるってことは方耳聞こえないってこと その逆もしかり

前の記事でも書きましたが、私方耳聞こえません。10歳のころにおたふく風邪で方耳が聞こえなくなりました。そういう人ってほんとうは結構多いですね。実家の近所の女の子もそうだって言ってました。
当時はお医者さんが言うには「熱で耳の神経細胞が死滅したので手術しても治りません」ということだったらしい。母はだいぶショックだったでしょう。一度だけ母が私の耳のせいで泣いてるのを見たことがあります。私は方耳が聞こえなくなっても幼さのせいでそれがどれだけ大変なことかってわかってなかったので、「私は大丈夫なのに、おかあさん、どうして泣いてるの?」って思った記憶があります。私も方耳生活慣れました。もう10年もこうですし、子供のころの順応力ってすごいもんです。

今回結構重いテーマです。長いと思います。なので、あの。。。いやだったらここで読むのやめていただいて構わないです。(・_・;)

「方耳あるんだからいいじゃん」っていう人いるんですけど、両目で見るのが当り前な社会で片目で物を見るって不便ですよね?両手使えるのが当たり前な社会で片手で生活するのって不便ですよね?両耳聞こえるのが当り前な世界で方耳で生活するのも不便ですよ。私は10歳のころからこういう状態になったので、もうずいぶん慣れましたが、やはり音のする方向をつかむのが本当に苦手です。誰かが呼んでるけど、どこからかわからない。何かがなってるけどどこかわからない。車の音がするけどどの方向から来るのかわからない。こういうことはしょっちゅうです。車にひかれそうになったこともしばしばです。(ひかれたこともありますが軽症で済みました)

「方耳聞こえないの?かわいそうね。大変ね。」っていう人には「いえ、まだ片方あるんで会話も普通にできるし大丈夫です」っていうんですが(強がりではないつもりですが)、やっぱり二つあるべきものが1つしかないと結構不便。じゃあ全聾のひとはどうなるとか言われたら、聾は聾の文化がある!って言ってますけどね。耳が聞こえないとか目が見えないとかってある意味個性です。そういうものなんだ。って。生まれたときからそういうもんだと本人はおもってるんだから、不便とか可愛そうじゃないんだって。でも両耳聞こえてた人が大人になってある日いきなり聴力を失ったり方耳で生活することになったりって結構不便だと思います。だって本人はあるはずのものがない!って思うわけですから。それに社会は五体満足で障害のない人を中心にできてますから、電車の車内アナウンスが聞こえない(生まれつきの聾者はその存在すら知らず、補聴器や聴者から聞いて初めて気づくものです)とか不便だなって思うのは音を失う前の世界を知ってる人だけです。そういうひとって聾文化と聴文化の間に挟まれてどちらにも溶け込めない中途半端な感じになってしまってつらいだろうなって思うんです。体は聾者だけど、聾文化で育ってないから気持ちは聴者。それって苦しいと思うんです。結局聴者に負い目をおったりしながら生きていく精神的な苦痛って大きいんだろうなって考えます。

自分は普段「まだ方耳あるじゃん」って思うようにしてます。職場とかでも「あの、聞こえないほうから話しかけるときは大きな声で、もしくは肩を叩いてくださいね。無視してるわけじゃないんですけど、聞こえてなかったりすることもあると思うんで、そういう時はごめんなさい。」って先にいっちゃいます。あとから「無視した」とか誤解されるのいやなので。
もうそういうのもだいぶ慣れました。それでもたまに道を歩いてて聞こえないほうからおばさんとかに「どいてっていってるでしょ!!むかっ」とか怒鳴られてしまうこともあり、そういう時はちょっと凹みます。結構凹みやすいんです、私。www 中途半端に聞こえるもんだから「方耳聞こえないんです!」とか反論もできずに。。。しょぼーん。

こういうことはシドニーでもあります。いじわるなお姉さんの視界の妨げになっていたようで、私が「あ、すいません」ってどいた後も執拗に肘でつつかれて嫌な思いをしたのが今でもトラウマです。「あんたが聞こえないほうから来たのが悪いんじゃー!(八つ当たり?)こっちは聴覚に障害があるんじゃーー!」と今更怒っても、時すでに遅しですね。でももし私が全聾で手話で会話してたり補聴器つけてたらそんなに意地悪をしなかっただろうなって思ってしまったりします。聴覚障害は目に見えないので聴者と区別がつけにくい。だからこそ聴導犬や補聴器に頼る(外見的に)人がいるのもうなずけます。こういう目に見える”サイン”に頼らないのがいいとか頼ったらいいとかそういうものではなくて人それぞれのニーズでいいと思います。聴者に囲まれる状況で補聴器をつけるのが自分にとっていいと思えたらつければいい。私の周りには理解ある聴者や聾者がたくさんいて助けてもらってるから聴導犬なんかいらないって思ったら、いらないです。
ちなみに私が小学校を卒業するときは卒業スピーチで「耳の聞こえない人を助ける聴導犬のトレーナーになりたいです!」って宣言したなぁ・・・。

でも現在の時点では聴者と社会をともにすることが多い私。日本では半難聴は聴者とみなされます。実際聾者でも「方耳でも聞こえたら聴者よ」って言う人多いです。確かに聞こえるって時点で聾ではないし、聾文化でも育ってないですから聾だとは言えないです。

でも健聴者と同じ扱いを受けるとハードルが高すぎるときも多々あります。
ちなみに高校と中学の私の夢は国連などの同時通訳でしたが、方耳ヘッドホンでA言語を聞いて同時にB言語に訳していくのをもう片方の耳で自分で聞くのは私には無理だったのであきらめました。高校の英語の先生にも「あなたは同時通訳とかできるわよ。ぜひトライしてみなさい。」って太鼓判押されたのを「私、方耳ヘッドホン使えないんで無理です。」ってあっさり断って先生が驚いてました。
あと電話で誰かと会話しながら自分のそばにいる人の用件を伝えるのとか仕事で要求されるのがあった時にも困りましたね。「私、受話器をとったら受話器の声しか聞こえません」っていうのがちょっと勇気要りました。でも別にそれって生きるか死ぬかの話じゃないし~と適当にすり抜けてきた私。ここで立ち止まって考えると制限が課されていることに気づきました。障害というより制限。健聴者とちょっと違うだけでこんなに差が出るんだなと実感しております。しかも目に見えてわかるものじゃないから誤解されるのも多いです。

でも方耳でも聞こえない以上、聴覚障害者であることには変わりなく、健聴者との聴力とは明らかに差があるのですからこういう人だって理解が必要です。政府にだって一般の人にだってわかってほしいしフォローだってほしい。ほしいというか必要なんだなって思うんです。

聾=聴覚障害ではない。おじいちゃんが耳が遠くなってるのも聴覚障害だし、方耳聞こえないのも聴覚障害だよ!!と声を大きく言いたいのです。
自分の持っている障害をひけらかすつもりはありませんが(そもそもあまり障害という自覚がなく、不便~くらいな感じです)それなりにケアが必要な分、多くの人にも聴覚障害の本当の意味を知ってもらいたい。聞こえる・聞こえないの両極端の間をうろうろする人が世の中にはたくさんいます。私もその一人だと思ってます。
聾者より聞こえるけど健聴者ほど聞こえない。それってみなさんどうだと思いますか?
私は聞こえないなら聞こえないか聞こえるなら聞こえるでどっちかならよかったなぁとか思います。でも現状に日々不満を持って生きてるわけじゃないですよww たまーに思うくらいです。

手話だって本当に素敵な言語だと思うし、特に先日のプー太郎な私の読書の件で書いたように私の頭は文字よりビジュアルで考えているようなので、手話だとズバーって直接的に入ってきてわかりやすい気がするんです。
かと言って私が全聾だったら英語もロシア語もマスターできずにいただろうと思うとそれはそれでいやだな。。。とか思ってみたり。音声言語だって響きがあって美しいさ!

将来BAHAとか使って両耳で聞こえるように(それに近い感覚に)なったらステレオってどんな感じか聞いてみたいなぁラブラブラブラブあと未来科学館でみた、スピーカーは一つなのに音がいろんな方向から聞こえるってやつも体験してみたい!あれで悔しい思いをしたのでww 「私にはわかんない!!むかっ」とかいってプンすかしてましたwwくりぴこは「僕はわかったけど、そんなに面白くない」とフォローしてくれてましたが、いや、私は意地でも聞きたい!!聞いてから「面白くなかった」って言ってみたいんじゃーー!!(ちゃぶ台返し。)

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